生活

にっき

クリスチャン・ボルタンスキー展

クリスチャン・ボルタンスキー展行ってきました〜!

なんかふっと疲れたな〜可愛いとかそういうウキウキした感情最近ないな〜単純に可愛いモノに触れたいな〜
と思ってオサム展行きたかったんだけど休館日で、、、
そういや気になってたし、推しも行ってるしって思って調べたら次の日で終わり!行くしかない!と思って最終日駆け込み。

オサム展からのボルタンスキーの落差。

全然予習も0で飛び行ったんですけど、

「発言する」

お母さんを置いていったの?
感情はあった?
とか老若男女様々な声で尋ねてくるんだけど、
こんなに沢山の人がいるのに自分だけ死神に聞かれてるような肩を叩かれて連れて行かれるような恐怖感。

まあ展示会の中で感じたのはボルタンスキーの頭の中で死という事、臨死体験、走馬灯のような途切れ途切れの映像を見せられてるかのようで薄気味悪かったです。

ただ、作者の意図と絶対違うんだろうなって思ったんだけど1番好きだったのが、
「保存室」
沢山の服が壁一面密集して吊るしてあるんだけど、その服の生地や形。どういう条件で集められたのかちょっと分からなかったけど、
その人のアイディンティを服という形で借りたのであれば、私という個はどんな服で表現され、ここに吊り下げられるんだろうと思った。

服というものはその人なりけり。と私は思うのに毎日選ぶときに適当な服を選んでしまってる。着やすいとか、汚れても良かったりとか。
私はこんな人間でこんな風に見られたいって言う表現の1つを服に託してるのにいつのまにか淘汰されてたなって思って。

毎日気負って生きるほど私は力がないのだけど、考えないで、つまらない私が生まれると思ったら怖い。ちゃんと選択肢がある今を考えて大切に過ごさなければと思う。

展示会言って自己問答する時間がわたしには何より必要だ。

わたし

大好きな推しが卒業した。
推しって言葉では語れないぐらい、
大大大好きだった。
彼女の美しさとか、真っ直ぐな性格とか子供っぽく笑うとことか、ジャンプすると大の字になるとことか、本当に出会えて、応援出来て良かったって心のそこから思う。

私は自己紹介とか自分の話をするとき、
アイドルオタクでって必ず言う。そうすると今の時代必ずアイドルオタクは近くにいるし距離が縮まる。宗派は違くても。

今、大好きな推しが卒業した時に私は自分を代弁するものが無くなってしまった。

私って何者なんだろう(混乱)
大好きな攻殻機動隊の素子のセリフで、
「他人の夢に自分を投影してるだけでは、死んだも同然だ。」
今聞くとすごく胸が痛い。
応援してたつもりの事が自分の話にすりかえてた。
すごく空っぽなのは、彼女を通して自分を見る事が出来なくなっちゃったから。
彼女ではなく自分の事ばっかり。
誰かを応援してる自分は、現実を直視しないですんでたし、許されると思ってた。だって時間もお金もかけてるんだもん。
この5年、楽(らく)し過ぎた。


あやふやにしてた部分のツケがきた感じ。
今すごく自分とは何ぞ?ってなって、
アイドルオタクの中でも中途半端だし
社会人としては堕落してるし。
憧れが消滅した後って何が残るんだろう。
キラキラ輝く星が地球に堕ちたら汚い塊や塵にしかならないみたいに、推しが消えたら私には何にも残らなかった。
ただ自分で思考しないオリジナルじゃない女がいるだけ。


この半年は自分の生活を見直したいって思う。自分の人生において大切なのはどの部分なのか、とか。
その中で誰かに推しがもう関わらない、ありのままの自分の話が出来たらいい。
旅立ちの春が来た、、夏だけど。